鹿児島地方裁判所 昭和37年(行)3号 判決 1965年4月05日
原告 大平ヲキ
被告 鹿児島県教育委員会
主文
原告の請求をいずれも棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
事実
原告訴訟代理人は、「被告が昭和三七年一月二三日付でなした原告に対する免職処分が無効であることを確認する。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決を、右請求の理由のないときは、「被告が昭和三七年一月二三日付でなした原告に対する免職処分を取り消す。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決を求め、その請求原因として、
一、原告は、大正九年四月に小学校代用教員となり、その後、小学校訓導、助教諭、教諭、講師を経て、昭和三六年四月から鹿児島県囎唹郡志布志町立志布志小学校に講師として奉職していたものであるところ、被告は昭和三七年一月二三日付で、次の事実を理由に地方公務員法第二八条第一項第一号および第三号を適用し、同年二月二三日にその効果が発生することとして、原告を免職処分にした。
(一) 児童の教育に熱意がなく、指導力にも欠け責任感が乏しく、かつ勤務実績が不良である。
(二) 教養、識見、誠実、社会性等教職員に必要な適格性を欠く。
二、しかしながら、被告のした本件免職処分は、次の理由により無効もしくは取り消しうべき瑕疵のある行為である。
(一) 地方公務員法第二八条による分限免職処分は行政庁の法規裁量行為であつて、付款を付することができないものであるのに、本件分限免職処分には前記のような期限が付されている。凡そ、行政処分に付款を付することができるのは、その旨法令が認めている場合、またはその行政処分が当該行政庁の自由裁量として認められている場合に限られるのである。
仮りに、右期限が労働基準法第二〇条所定の解雇予告期間を置く趣旨で付されたものであるとしても、地方公務員法第二八条第一項所定の免職処分には労働基準法第二〇条の適用がない。すなわち、労働基準法第二〇条は一般労働者を対象とする保護規定であるところ、地方公務員法第二八条第一項は公務員の特殊性に基づく解雇の特別規定であつて、同条項に基づく免職処分に労働基準法第二〇条を適用することは、明らかに地方公務員法の精神に反し、人事委員会規則にも矛盾するからである。また、昭和三七年一月二三日付でなされた被告の本件行為が解雇予告であるとすれば、同年二月二三日にあらためて分限免職の通知をしなければならない(鹿児島県職員の分限及び懲戒の取扱に関する規則第四条)のに、同日以降原告は分限免職処分の発令を受けていない。
のみならず、本件のように分限免職処分が期限付きでなされることにより、次のような不都合な結果を生ずることになる。
(1) 期限付分限免職処分の期限が未到来でその処分の効果が未発生の間は、原告において身分上待遇上の権利を有しているのであるから処分を受けたことにはならない。そして、原告が地方公務員法第四九条所定の処分説明書の交付を受けたのは、右期限到来前である昭和三七年一月二三日であるから、原告は処分を受けないのに処分の説明を受けたことになる。そこで、処分説明書は、被処分者に対して処分の理由を明らかにすることにより不利益審査請求の機会を与える趣旨で被処分者に交付されるものであるから、その交付は不利益処分の効果が発生した後になされなければならない。
仮りに、処分に付された期限が未到来でその処分の効力が未だ発生していなくても、処分説明書の交付を受けたことにより不利益審査請求や訴えの提起ができるものとすれば、処分の効力が発生するまでの間は審理の対象が存在しないことになるし、また右期限が到来して処分の効力が発生してから審査請求等をなすべきものとすれば、その期限を処分の日から三一日以後の日と定めることにより行政庁の恣意によつて審査請求期間を全く奪うことができるようになる。
(2) 他面教育の実質面からみると、児童は資格のある教師から所定の課目を所定の時間授業を受け、これが認定されてはじめて所定の教育課程を終了したことになるのに本件では、被告から教師として不適格と認定され分限免職処分を受けた原告から一ケ月間教育を受けるのであるから、その間原告から教育を受けた児童は違法な教育を受けたことになる。このことは、憲法上保障されている児童の教育を受ける権利(憲法第二六条第一項)、を侵害するものである。
(二) 凡そ不利益処分をする場合、その審理手続は公開されるべきであるのに、本件免職処分は右公開の原則に違反してなされている。
不利益処分の審理手続が公開によるべきことは、近代民主国家における根本理念であり、憲法およびその他の法律の根本原則であつて鹿児島県教育委員会の行政組織等に関する規則もこのことを前提として会議の傍聴についての規定を設けている。しかるに、被告は右規則に違反して告示や原告本人に対する通知をなさず、秘密のうちに審理をして本件免職処分をした。
(三) 本件分限免職処分の理由として被告の指摘する地方公務員法第二八条第一項第一号および第三号該当の各事実は、いずれも原告には存しない。
被告は、故意に歪曲された資料に基いて虚構の事実を認定し、原告の勤務実績や不適格性を判断したものである。
むしろ、原告の教育態度は積極的であり、児童が自ら進んで意欲的に勉強する志向的教育方法をとつており、教師としての経験も豊富であつて熟練の域に達していた。そのため、原告の担任学級の児童は意欲的に勉強し、各種テストの成績も抜群であつたし、また作文や図画に多数の入選作品を出す等、教育の実績が顕著であつて、父兄や教え子から絶大な信頼を受けている。
(四) 本件分限免職処分は、原告が被告からの退職勧奨に応じなかつたことに対する報復であつて、権利の濫用である。
原告は、小学校教諭として勤務中昭和二九年三月被告から年令を理由に退職を強要され、一旦はこれを拒絶したがその後被告から退職後も講師として採用するとの交換条件が提示され、不本意ながら右被告の要求を受諾し、同年四月から小学校講師となつた。しかし、昭和三〇年以降も毎年被告から執拗な退職勧奨を受け、その都度原告はこれを拒絶していたが、右退職勧奨の理由は鹿児島県の財政困難という一方的なものであつた。被告は原告に対する退職勧奨が効を奏しなかつたので、昭和三五年四月遂にPTA父兄を煽動して父兄による原告の担任拒否という事態を生ぜしめようとしたが、結局成功に至らなかつた。そこで被告は、昭和三六年に至つて原告と父兄との間をさき登校拒否の事態を作り出そうと計画し、森山小学校長別府国丸と通謀し、地元の有力者やPTAの幹部らに働きかけて、当時原告が担任することになつていた新入生の父兄を煽動し、更に右校長において右父兄らに対し同年四月三日には新入学児童を登校させないよう通知するとともに、同日児童を伴つて登校してきた父兄らに対しては皆と行動を共にするように申し向けてその登校を阻止した。また、被告は一方では原告に対する退職強要に供するための資料を故意に歪曲した形で蒐集し、右資料と前記原告のボイコツト運動とを根拠に、原告に対し一層強硬な退職勧奨をするに至つた。そして、同年同月二四日被告は突如原告を森山小学校から志布志小学校に転任させ、その後は原告を過員として配置し、一切の教科および学級担任をさせず、事実上用務員としての仕事をさせた。このようにして、被告は原告に対し種々嫌がらせをして退職勧奨に応じさせようとしたが、原告がこれに応じないので遂にしびれをきらし、本件分限免職処分の挙に出てきたのである。
三、原告は、昭和三七年二月一九日鹿児島県人事委員会に対し本件分限免職処分の審査請求をなし、現在同委員会において審理中である。
四、よつて、原告は被告に対し、被告が昭和三七年一月二三日付でなした原告に対する免職処分が無効であることを確認するとの判決を求め、右請求の理由のないときは、被告が昭和三七年一月二三日付でなした原告に対する免職処分を取り消すとの判決を求める。
と述べた。
(証拠省略)
被告訴訟代理人は、主文と同旨の判決を求め、答弁として、
一、請求原因一記載の事実は認める。
二、同二(一)記載の原告の主張は争う。
地方公務員法第二八条第一項第一号および第三号に基づく処分が純然たる自由裁量行為でないことはもちろんであるが純然たる法規裁量行為でもない。すなわち、任命権者は、同条該当の事由が存在する場合にも、同条項所定の処分を行うかどうかとか、処分の種類の選択、処分の時期等については諸般の事情を検討して合理的に決しうべき裁量権を有するのであるから、法の趣旨、目的に反しない限り被処分者に不利益を与えない合理的範囲の始期を付することはなんら差支えない。殊に、免職の辞令に確定的な始期を付することについては、これを違法とすべき法律上の規定がないばかりでなく被処分者に対しても利益を与えこそすれ、なんらの不利益を与えるものではないから、条理上からしてもこのような処分を無効とすべき理由は全くない。
本件免職処分については、地方公務員法第五八条第二項により地方公務員についても労働基準法第二〇条の規定が適用されるので、被告は同条第一項の趣旨に従い、辞令の到達後三〇日の期間を置くため昭和三七年一月二三日付で同年二月二三日付をもつて分限免職処分に付する旨の意思表示をした。そして、右条項にいう解雇の予告とは、少くとも三〇日前に解雇の日を特定して意思表示をせよという意味であつて、先ず予告をしてその後更に解雇の意思表示を必要とする趣旨ではない。また、効果発生の日を将来に定めた処分といつてもそれ自体処分であることに相違なく、このような処分として処分説明書を交付することは少しも背理ではない。そして、このような処分に対する審査請求はまさに当該処分に対して行うべきであり、かつそれをもつて足りるのであつて、処分の効果発生を待つ必要は少しもない。
三、同二(二)記載の事実のうち、被告が本件免職処分をするについて教育委員会の会議や議事の告示をしなかつたことは認めるが、秘密のうちに審査をしたとの事実は否認する。
教育委員会の会議や議事について告示および公開の原則をとるかどうかは、地方教育行政の組織及び運営に関する法律第一五条により教育委員会の自律によつて定めるよう規則に委ねられており、右委任によつて定められた鹿児島県教育委員会の行政組織等に関する規則においては、同委員会の会議ないし議事について告示、公開に関する規定を設けていないので、被告は本件免職処分をするについて教育委員会の会議や議事の告示をしなかつたのである。しかし、別段右会議の公開を禁止したものではなく、当日傍聴者がなかつただけのことである。従つて、本件免職処分の手続には何ら違法のとがは存在しない。
四、同二(三)記載の事実は否認する。
被告が原告について地方公務員法第二八条第一項第一号および第三号に該当する事由があると認めた理由は次のとおりである。
(一) 勤務実績不良の点
原告は、児童の教育に対する熱意を欠き、指導力が劣り責任感に乏しく、勤務実績が不良である。
(1) 原告は、服務観念が薄かつた。すなわち、
(イ) 遅刻度数が多く、昭和三五年度には一分ないし二分程度のものは年間約五〇回にもおよび、一〇分以上の場合が十数回もあつた。また、昭和三六年度においては、二分ないし一五分の遅刻で記録されたものが一〇回におよんでいる。
(ロ) 学校集団の構成単位としての秩序ある学級運営をしていなかつた。定められた校時表(学校全体の日課表であつて各学級の時間割表ではない)による授業時間、作業時間、休み時間を原告の学級において守らないため、他の学級に迷惑をおよぼしており、これは年間を通じ頻繁に行われていた。
(ハ) 定められた教育課程実施のための時間割表を無視し、体育、図工、理科、教科以外の活動等の指導を軽視し自分の都合のよい算数、国語等に指導が偏しており、これは年間にわたり相当多量におよんでいた。
(ニ) 校長の職務命令(学校教育法第二八条第三項に基づく)を忠実に守らず、教師として児童に対する教育指導上日常欠くことのできないいわゆる「週案」「日案」の記入提出を求められても、進んでこれに応じなかつた。
(2) 原告の教科学習の指導は、各教科にわたり計画性がなく、その指導内容も適切でなく、また指導方法も拙劣であつて、指導力に乏しい。
しかも、校長が文部省や被告から指示された教育課程の基準に基づき、森山小学校に適合するように作成した教育課程に従い、教科、道徳、教科外活動、学校行事について均衡を得た指導をするよう指示したのにかかわらず、原告はこれに従わず、右四つの領域の均衡のとれた指導が実施されていなかつた。
(イ) 教育課程改正に伴う移行措置による算数、体育等の教材指導が不充分であつたため、児童の学習に混乱をきたした。
(ロ) 教材研究が不足したり、全然なされなかつたりした。
(ハ) 作品募集や学芸会等の前には、一部児童の指導に偏して大部分の生徒を放任状態に置き、学芸会の前など二週間ばかりは教科の指導がおろそかになつた。
(ニ) 国語科については、読み、書き、作文、模写等には比較的力を注いでいたが、一歩進んで、話すこと、聞くこと等の面の指導が不足していた。
(ホ) 社会科については、教育課程において示された担任学年において習得させるべき領域の要点の指導に欠けていた。また、その指導領域を逸脱して、原告が旅行した際見聞した漫談話に相当な時間を費やした。
(ヘ) 算数科については、著しく計算技能の指導に偏し、計算能力は養われていたが、応用的能力、図形教材、思考的方面の教材の指導が充分でなく、またその指導方法も拙劣であつた。
(ト) 理科については、実験や作業を要する教材の指導が充分でなかつた。
(チ) 音楽科については、昭和三〇年度から昭和三四年度までは海江田教諭に授業を依頼し、昭和三五年度は五年生の家庭科との交換授業で下西教諭が教えており、原告にその指導の能力がなかつた。しかも、森山小学校在職七年余の間、原告が器楽練習、声楽練習をするところは一回も見た者がない。
(リ) 図工科については、実技および理論の力が乏しく、従つて指導力が不足し、描かせ放しの時間が多く、また、工作は教育課程に示された基準どおり実施されていないものが多かつた。
(ヌ) 家庭科については、教育課程に示された内容の指導がなされておらず、自分の視察した大阪方面の旅行等に関する漫談が多かつた。
(ル) 体育科については、指導計画に示された内容に従わず、また卒先して実技指導をすることができず、児童だけを運動場に出し、自分は教室にいることが多く、放任して指導を行わない日が多かつた。
(ヲ) 道徳の時間の指導については、森山小学校においては、昭和三四、三五年度において年間三五時間が道徳の時間として割り当てられ、定められた道徳教育課程によつて学級担任者自身が指導することになつていたのに、指導計画による指導はほとんどなされず、この時間を他の教科の指導にあてたことが多く、道徳の適正な指導が行われていなかつた。
(ワ) 教科外活動については、一部の児童に偏し、他の児童を省りみないで放任していたことが多かつた。また三年生のクラブ活動の時間には、学級担任者において一位数の加減程度の珠算を指導するように校長から命じてあつたのに、原告はこれを指導していなかつた。
(カ) 学校行事については、積極的に参加する態度がみられなかつた。
(3) 原告は、校務の処理につき怠慢であつた。
(イ) 家庭科の備品の整理、公文書、履歴書等の編綴、保管の仕事を分担していたのにほとんどなされず、校長から何回も注意を受けていた。
(ロ) 出席統計等を作成する資料を所定の期限までに提出せず、統計主任を当惑させたことが何回もあつた。
(4) 原告に対する森山小学校長別府国丸の観察による勤務実績の評価は最下位の段階であつた。
(5) 昭和三五年、三六年の両年における原告に対する校長の勤務評定においても、その総評は良好ではなかつた。
(二) 教職員に必要な適格性を欠く点
(1) 前記(一)の原告の勤務成績の点について列挙した各項の事実は、他面適格性を欠く事由にも該当する。すなわち原告は教師として当然備うべき専門的知識および能力を欠いている。
(2) 原告は、自尊心が強く、自説にこだわり、厚顔で利己的傾向が強く、他との協調性に乏しかつた。
(イ) 原告が週案、日案を軽視していたことは前記のとおりであり、学習指導上の問題等につき、校長、同僚の意見を傾聴せず、自分の多年の経験を至上のものとして主張していた。
(ロ) 原告の担任の学級が雑然としていることが多かつたので、整理するようにと校長、同僚から注意されてもその必要はないと自説を固執し、その他学習指導全般にわたつて、自分の考えが最も良いといつて、他人の意見を聞き入れない傾向があつた。
(ハ) 児童の父兄に対し自分の指導がいい旨自己宣伝をし、同僚の海江田教諭が実践記録の部で特選に入選すると「自分も一年生を担任したらそれくらいはできる。」などと言い、自分をことさらに高く評価し、同僚が少し注意すると人権侵害などと言つて騒ぐ始末であつた。
(ニ) 年次休暇や特別休暇をとるのに、事前に定められたとおり学校長の承認を得ずに、電報で頼むとか事後承認を受けようとしたことがしばしばであつた。また、学芸会練習のとき、用具、時間、場所を決められたとおり使用せず、自分本位に専用し、他の学級に迷惑をおよぼしていた。
(ホ) 大阪から持ち帰つた物品を校区民や同僚に販売し、また自分が買つてきたノートや学用品を担任学級の児童に売つていた。
(ヘ) よく「うそ」をいうので、そのために問題を起している。
(A) 昭和三六年四月三日森山小学校で父兄の登校拒否があつた朝、別府校長が登校中の児童とその父兄に子供を学校に出すよう言つたのに、原告は、「校長は折角来たのに帰れと言つた。」と新聞記者、教組関係者、一部父兄らに言つた。
(B) 原告は、昭和三六年一月から二月にかけて森山小学校校区内の山村辰雄方に六回も宿泊したのに、一、二回しか泊まつていないと言い張つた。
(C) 志布志町教育長が退職勧奨を行つた際、原告は主として経済的理由でこれを拒否したが、当時原告は相当な経済的余力を持ち、他に相当の金額を貸与していた。
(D) 「森山小学校養護婦鮫島幸子が日直をしないと言つた。」旨虚構の事実を校長に言い、口論になつたことがある。
(3) 原告は、教師としての品位がなく、その生活態度が清廉でなく、教師たるに適しない。
(イ) 児童の家庭を必要以上に訪問し、何回も宿泊して家人に迷惑がられていた。
(ロ) 家庭訪問をした際や、運動会等の折食物のことにつきどん欲な行動があり、また学校で来客が残した茶菓子や宴会の残余物をかき集めて自宅へ持ち帰ることがしばしばあつて、その評判が芳しくなかつた。
(ハ) 原告が父兄の信頼を失つていたために、担任拒否、登校拒否等の事態が生じた。
(4) 原告は、非常識かつ不作法であつた。
(イ) 原告の在任当時、森山小学校では、水不足のため児童、小使らが遠方から飲料水を運んでおり、洗濯用には付近の小川の水を使用していたのに、原告は、昭和三五年三月八日、右のとおり飲料水として運んだ水を洗濯に用い、かつ教職員がかねて手洗いや洗面等に使用していた洗面器に自分の汚物(下着)を浸しており同僚のひんしゆくを受けた事実があつた。(原告が女教師としてかようなことに無神経であることが問題なのである。)
(ロ) ことば使いが下品で、児童との対話に「おい」、「わい」等という卑俗なことばを使い、またそのようなことばで口ぎたなく児童を叱ることがたびたびであつた。
(5) 原告の勤務態度には、節度がなかつた。
(イ) 前記(一)の(1)の(イ)ないし(ニ)の各事実があつた。
(ロ) 勤務時間中時を選ばず、自分で茶を入れて飲んだり、仕事中に同僚に対し不要不急の話しかけをするなどした。
(ハ) 授業時間中に児童をして自分の肩をたたかせることがよくあつた。
(ニ) 勤務時間中に森山小学校の炊事場で、学校用の薪を使用して、自分の炊事をすることが時々あり、これがために授業時間に食い込み遅刻することがあつた。
(ホ) 原告に対する個人的指導助言のため校長が呼んでもこれに応じないことがあり、しぶしぶ応じるのが常であつた。
(ヘ) 昭和三五年度夏期休暇中、校長から校外生活指導を命じられながら一回も行わなかつた。
(三) 叙上の原告の勤務成績、学習指導上の欠陥、特種の性格、品位、勤務態度等は多年継続し、ほとんど変らないものであり、とうてい矯正し難いものである。
五、同二(四)記載の事実のうち、原告が昭和二九年三月末に被告から勧奨を受けて小学校教諭を退職し、同年四月二日から同講師に採用されたこと、昭和三〇年以降も毎年、原告は被告から退職勧奨を受けたが、その都度これを拒絶していたこと、原告が森山小学校に勤務中、同校父兄の手によつて、昭和三五年四月に担任拒否、翌三六年四月三日に登校拒否の事態が生じたこと、被告が同年四月一日付で原告に対し森山小学校講師から志布志小学校講師に転勤を発令したことはいずれも認めるが、その余の事実はすべて否認する。
原告が右のように小学教諭を退職し同講師に採用されたのは、原告の希望によつて、原告と木佐貫志布志町教育長との間に、一年限り講師として在職したうえ勇退するとの了解がなされ、これに基づいて行われたものである。そして、その後においても原告は勤務成績が不良で適格性に欠けるところがあつたので、被告は毎年度退職勧奨を行つたが、その都度原告において経済的理由を口実にこれを拒否してきた。
ところで、小学校の教員については法律上定年退職の制度がないため、教育行政上において任命権者が人事の刷新、新陳代謝を図るには勧奨退職の方法を活用するほかはなく、この方法の円滑な運用を期するためには、一方任命権者において毎年度一定の基準を定めて、これに該当する者のうち高令者、勤務年限、勤務成績、身体の状況その他の適格性等を綜合的に勘案して教育の振興上退職を適当と認める者に対し、退職勧奨を行うことを必要とするのであるが、他方被勧奨者においては、右勧奨の趣旨(人事の刷新、教育の振興)をわきまえ協調の精神をもつてこれに臨むべく、徒らに自分の個人的事由のみを固執して拒否することのないように配慮しなければならない。しかるに、原告は鹿児島県下の教育界の実情を無視して自分一個の立場のみに執着してきたものであつて、原告こそその職における権利を濫用しているものというべきである。
六、同三記載の事実は認める。
と述べた。
(証拠省略)
理由
原告が大正九年四月に小学校代用教員となり、その後、小学校訓導、助教諭、教諭、講師を経て、昭和三六年四月から鹿児島県囎唹郡志布志町立志布志小学校に講師として奉職していたこと、被告が昭和三七年一月二三日付で、地方公務員法第二八条第一項第一号および第三号を適用し、同年二月二三日にその効果が発生することとして、原告を分限免職処分にしたこと、右条項該当の事実として、原告は、(一)児童の教育に熱意がなく、指導力にも欠け責任感に乏しく、かつ勤務実績が不良であり、(二)教養、識見、誠実、社会性等教職員に必要な適格性を欠いていることが指摘されていたこと、原告が同年二月一九日に鹿児島県人事委員会に対し本件分限免職処分の審査請求をなし、現在同委員会において審理中であることは、いずれも当事者間に争いがない。
一、原告は、本件分限免職処分には期限が付いているので違法であると主張する。
よつて按ずるに、地方公務員法第二八条により公務員を免職処分に付するには、当該公務員について同条第一項各号に定める事由のいずれかに該当する具体的事実が存在することを必要とするが、右事実が存在する場合においても、処分権を具体的に発動するかどうかとか、処分の内容および時期をいかにするか等については、公務の能率の確保等分限制度に内在する目的に照らし、かつ個々の具体的事実の特性に即応して、社会観念上妥当と認められる範囲内で処分権者において適宜これを決定することができるものというべきであつて、被処分者が担当していた職務の内容、処分後の後任の補充関係、それに伴う職員の適正な配置等諸般の事情を勘案して分限免職処分に相当な期限を付することは、これによつて当該処分に基づく法律関係を不安定なものにし、或いは分限制度の目的を逸脱し、被処分者に不当な不利益を与えることにならない限り、許されると解するのが相当である。そして、本件免職処分に付された前記期限は一ケ月であつて、これが付されたことにより原告に格別の不利益を与えているとも考えられず、社会観念上妥当と認められる範囲を逸脱しているものとは認められないので、右期限を付したことをもつて本件免職処分が違法であるということはできない。なお、原告は免職処分が期限付きでなされることにより種々不都合な結果が生ずると主張するが、期限付免職処分といつても、それが確定的な意思表示としてなされている以上、なお独立の処分として成立しかつ存在しているのであるから、被処分者はこの処分に対して審査請求をすれば足りるのであつて、その期限の到来を待つ必要はないし、また教員としての適格性を欠くとの理由で期限付免職処分がなされたとの一事をもつて、その期限が到来するまでの間被処分者が在任していた学校の児童の「教育を受ける権利」が侵害されたものと即断することはできない。従つて、本件免職処分にはこの点における違法はない。
二、次に、原告は、本件分限免職処分の手続は公開の原則に違反したもので違法であると主張するので、この点について判断する。
被告が本件免職処分をするについて教育委員会の会議や議事の告示をしなかつたことは当事者間に争いがない。しかし、教育委員会が学校職員等に対して不利益処分をするにあたりその審理手続を公開すべきかどうかについては、法律自ら直接に定めるところがなく、地方教育行政の組織及び運営に関する法律第一五条により教育委員会規則に委ねたものと解されるところ、右法律の委任に基づいて制定された鹿児島県教育委員会の行政組織等に関する規則には、鹿児島県教育委員会の会議ないし議事の告示や通知や公開を義務づけた規定は存在しない。また右の鹿児島県教育委員会の行政組織等に関する規則に鹿児島県教育委員会の会議の傍聴に関する規定があるからといつて、このことから直ちに同規則が右委員会の会議の公開を一般的に要求しているものとはいえないのみならず、かえつて、同規則が、その第一八条において教育委員会の会議の傍聴を同委員会委員長の許可にかからしめていること、その第二〇条第二項において右傍聴の禁止をなしうる旨定めておきながらその禁止事由を限定する規定を置いていないこと等に照らしてみると、右委員会の会議を公開して行うかどうかは同委員会委員長の裁量に委ねられているものと解するのが相当である。そうすると、被告が本件分限免職処分をするにあたり鹿児島県教育委員会の会議ないし議事を告示せず、原告に通知もせず、また公開もしなかつたからといつて、右処分の手続が違法であるということはできない。
三、そこで次に、被告の主張する各免職事由について判断する。
(一) 勤務実績不良の点
(1) 原告の服務観念について、
証人別府国丸の証言により真正に成立したものと認められる乙第二号証の二、同第二号証の四の九、証人末吉保男の証言により真正に成立したものと認められる乙第二号証の四の一、証人西村健一の証言により真正に成立したものと認められる乙第三号証の二、証人鶴留徳一の証言により真正に成立したものと認められる乙第四号証の一および証人別府国丸、同西村健一、同鶴留徳一、同末吉保男、同瀬戸口吉三郎、同松方敏博、同留岡喜佐子、同池尻実男の各証言並びに原告本人尋問の結果(但し、後記信用しない部分を除く)を総合すると、原告は、
(イ) 鹿児島県囎唹郡志布志町立森山小学校に教員として勤務していた頃(昭和二八年四月から昭和三六年三月まで)には、定められた出勤時間前に学校へ出勤したときでも、宿直室で食事を取つていたり、また知人宅に立ち寄つていたりしていて、学校朝会や授業時間に遅れることがしばしばあつたし、その後同町立志布志小学校に転勤してからも出勤時間に遅れることが多かつた。
(ロ) 森山小学校では、授業時間、作業時間、休憩時間、下校時間等学校全体の日課を定めたいわゆる校時表が作られていて、職員はこれに従つて勤務することとされていたが、授業時間の開始と同時に教室に出向かずそのため始業が遅れて授業が次の休憩時間に食い込んだり、作業時間の指導を怠つて自己の昼食の炊事をしていたり、またテスト等をしていて定められた下校時間に生徒を下校させなかつたことが少なくなかつた。
(ハ) 各学級毎の日課表として時間割表が定められていたが、原告の担任学級について定められていた時間割表によれば体育、音楽、理科の授業をすべきこととされている時間にこれをなさず、この時間を国語や算数の授業にあてたことが幾度もあつた。
(ニ) 森山小学校では、昭和三五年四月一三日の職員会における校長の指示により、各教員がその担任学級の授業内容等について事前の予定をたてるとともに事後の反省の資料とする目的で、いわゆる「週案」「日案」を作成して校長に提出することとされていて、他の教員は所定期限までにこれを作成して校長に提出していたのに、自分には永年の経験による腹案があるからその必要がないと云つて日案を作成せず、また週案はときどき作成して提出したにすぎず、その間再三校長からその作成提出を求められていながら、これに応じようとしなかつた。
との事実を認めることができる。原告本人尋問の結果中右認定に反する部分は信用せず、他に右認定を覆えすに足りる証拠はない。
そして、右(イ)については、学校全体の生活秩序や生徒に対する生活指導に甚だ好ましくない影響を与えるもので教員としてふさわしくない態度であるといわなければならない。なお、原告本人尋問の結果によると、原告は森山小学校から一里半ほど離れた所に居住していてバス通勤をしていたことが認められるが、このことは何ら右遅刻を正当づける理由とはなりえない。右(ロ)については、凡そ個々の学校職員において学校全体の日課表である校時表を誠実に遵守することが、学校全体の秩序ある運営を確保し、かつ生徒に対する適正な保護管理を可能ならしめ、結局において学校全体としての教育の成果に資する所以でもあることは見易い道理であるから、原告が校時表を誠実に遵守しなかつたことはこの点についての自覚になお欠けるところがあつたことを窺わせるものといわなければならない。そして、右の観点からすれば、仮りに生徒にテストや補習を受けさせていたという事情があつたとしても、このことをもつて下校時間が放恣に流れていたことを是認し、或いはやむをえないこととして看過し去ることはできない。右(ハ)については、時間割表と校時表との関係からみて右(ロ)について述べたことがそのままあてはまるし、他方、小学校においては全教科にわたつて均衡のとれた基礎教育を施すべきものであるのに(学校教育法第一七、一八条)、原告の指導が特定の教科に偏していたことは、原告においてその教科指導についての職責を完全に尽していなかつたものというべきである。右(二)については、いわゆる「週案」「日案」の作成目的は前記認定のとおりであつて、その作成、提出が個々の教員による日々の教科指導や校長の教員に対する監督のより効果的な実施を可能とするものであることは容易に首肯できるところ、原告がひとりさしたる理由もないのにその作成や提出を怠り、また校長の再三にわたる提出要求に応じなかつたことは、右のような「週案」「日案」の意義についての理解に欠けるところがあり、かつその職責の誠実な遂行を怠つたものといわなければならない。
(2) 原告の教科学習の指導について
前記乙第二号証の二、同乙第二号証の四の一、証人別府国丸の証言により真正に成立したものと認められる乙第二号証の四の三および証人別府国丸、同西村健一、同末吉保男、同瀬戸口吉三郎、同松方敏博、同留岡喜佐子、同池尻実男の各証言並びに原告本人尋問の結果(但し、信用しない部分を除く)を綜合すると、原告は、
(イ) 昭和三六年度から小学校の教育水準を全般的により高度なものとする教育課程の全面的改訂が行われることになり、昭和三四年度から右新教育課程への切り換えのための移行措置として準備教育期間が設けられていたが、原告の担任学級の生徒に対し殊に算数科について右準備教育のための教材指導を充分に行わなかつたため、昭和三五年度に担任教員が交替した際、右の生徒らに対し新担任教員において右教材の反覆指導をする必要が生じた。
(ロ) 教材研究を充分にしていなかつた。
(ハ) 作品募集や学芸会の前後には一部教科を犠牲にしてまで熱心にその指導を行つたが、右指導が一部の生徒に片寄つたため他の大部分の生徒を放任状態に置く結果になつた。
(ニ) 国語科の指導には相当重点を置き、殊に作文指導に優れていてかなりの実績をあげたが、その指導内容が読み、書きに偏し、反面話すこと、聞く態度等に関する指導が不足していた。
(ホ) 社会科については、第三学年の教育課程として生徒の身辺の町村に関する事項を習得させるべきこととされていたが、第三学年担任当時右事項を超えて原告の見聞した大阪や京都についての話に相当の時間を費しそのため本来の学習領域である右事項の指導がおろそかになつた。
(ヘ) 算数科の指導にはかなりの熱意をみせ、殊に計算技能の指導に優れていたが、他面応用能力に関する指導が不充分であつた。
(ト) 理科については、実験の指導が充分に行われず、また実験の時間も少なかつた。
(チ) 音楽科については、その指導能力に欠け、オルガンの演奏も不得手であつたので、森山小学校在任中の昭和三〇年度から昭和三四年度までは海江田教諭に授業を依頼し、昭和三五年度は校長の承認を得て五年生の家庭科との交換授業という形で下西教諭に授業をしてもらつていたが、その間自ら指導の能力を得ようとして努力した形跡がみられなかつた。
(リ) 体育科については、年令の関係もあつて率先して実技指導をすることができず、殊に教材の一内容である器械運動の指導を充分に行わず、時には、生徒だけを運動場に出して放任していたり、また体育の時間に正規の授業を行わないこともあつた。そして、その指導について最善の努力を尽した形跡はみられなかつた。
(ヌ) 道徳の時間の指導については、原告担任学級の生徒に対し正規の道徳の時間に道徳の指導を行わなかつたことが何回もあつた。
(ル) 教科外活動については、学芸会の指導において前記(三の(一)の(2)の(ハ))のように、一部の生徒に片寄つて他の大部分の生徒を放任状態に置いていたし、また校長からクラブ活動の時間に原告担当学級の生徒に対し珠算の指導をするよう命じられていたのに、ときにその指導をしないことがあつた。
との事実を認めることができる。原告本人尋問の結果中右認定に反する部分は信用せず、他に右認定を覆えすに足りる証拠はない。
図工科、家庭科の学習指導についての被告の各主張事実(被告の答弁事実中、四の(一)の(2)の(リ)および(ヌ))については、それぞれ証人別府国丸の証言中にこれに沿う供述部分があるが、右いずれの供述もその内容が具体性を欠く不明確なもので、これによつて直ちに右主張事実を確認することができず、他に右各主張事実を認めるに足りる証拠はない。また、原告には学校行事に積極的に参加する態度がみられなかつたとの被告主張事実(被告の答弁事実中、四の(一)の(2)の(カ))については、前記乙第二号証の二および証人別府国丸、同川原登の各証言中にこれと同趣旨もしくはこれを裏付けるかのような記載ないし供述があるが、右乙第二号証の二の記載は同号証作成者の伝聞によるものであることが窺われその真偽のほどが明らかでなく、右証人別府国丸の供述は帰するところ結論を述べたに止まり同証人がいかなる具体的事実に基いてこのような判断をしたのかは右証言からこれを窺うことができず、また右証人川原登の供述はその前後の供述と対比してみるに趣旨不明瞭に帰するので、右記載ないし各供述のいずれによつても直ちに右被告主張事実を認めることはできないし、またこれらの記載ないし供述を綜合しても未だ右事実を確認するに至らず、他にも右事実を認めるに足りる証拠はない。
そして、右の各認定事実中、(イ)および(ロ)については、教材研究を充分に行うことは勿論、教育課程の改訂に伴い新教育課程への切り換えのための移行措置として準備教育期間が設けられた場合、右期間中に所定の準備教育を施し新教育課程の円滑な実施を可能にすることは、教員として当然の責務というべきところ、原告は右責務を充分に尽さなかつたものといわなければならない。右(ハ)および(ル)については、たとい原告がその指導に熱意をもつていたとしても、一部教科を犠牲にしたことおよびその指導が一部の生徒に偏していたことにおいて、教育上甚だ好ましくないものであることは明らかである。右(ニ)ないし(ヌ)については、原告の教科指導には、その指導内容の充実度や指導技術の巧拙の点で顕著な不均衡がみられる一方、自己の不得意な科目の指導技術を向上させるため原告においてこれといつた努力を払つた形跡もみられないことは、小学校教員としての職責を充分に果したものとはいえず、またこれを果そうとする意欲にも欠けるところがあつたというべきである。
(3) 原告の校務の処理状況について
前記乙第二号証の二、証人留岡喜佐子の証言により真正に成立したものと認められる乙第二号証の四の五、前記乙第三号証の二および証人別府国丸、同末吉保男、同留岡喜佐子の各証言を綜合すると、原告は、
(イ) 森山小学校在任当時、家庭科の備品の管理、公文書、履歴書等の編綴、保管の仕事を分担していたが、校長が再三注意したにかかわらず、これを殆んど行わなかつた。
(ロ) 原告担任学級の生徒の出席統計を所定期限までに統計係主任に提出しなかつたことが再三あり、その都度学校全体の集計ができず統計係主任を困惑させた。
との事実を認めることができる。原告本人尋問の結果中右認定に反する部分は信用せず、他に右認定を覆えすに足りる証拠はない。
右(イ)(ロ)の各事実によれば、原告は校務の処理について自己の職責を忠実に果さなかつたものというべきである。
(4) 原告に対する勤務評定について
前記乙第三号証の二によれば、昭和三五年、昭和三六年の両年度における原告に対する校長の勤務評定総評がいずれも良好でなかつたことが認められ、また証人別府国丸の証言によれば、原告が森山小学校に勤務していた当時、同校々長別府国丸の観察による原告の勤務実績の評価は下位の段階であつたことが認められ、右各認定に反する証拠は存在しない。
(二) 教職員に必要な適格性を欠く点
(1) 原告の利己的傾向および協調性について
前記乙第二号証の二、同乙第二号証の四の一、証人西村健一の証言により真正に成立したものと認められる乙第三号証の九、証人別府国丸の証言により真正に成立したものと認められる乙第六号証および証人別府国丸、同西村健一、同末吉保男、同瀬戸口吉三郎、同松方敏博、同池尻実男の各証言を綜合すると、原告は、
(イ) 自己の経験により体得した指導方法等に固執して、校長や同僚の意見、忠告を謙虚に受け入れず、その職務を行うについて他人との協調に欠けていた。ことに週案、日案の作成提出や原告担任学級の教室整頓について再三におよぶ校長の注意に耳を貸そうとしなかつた。
(ロ) 予め校長の承諾を得ずに年次休暇をとつて、事後に承認を求めてきたことが再々あつた。
(ハ) 本来授業を行うべき時間にまで食い込んで学芸会の練習を行つた。
との事実を認めることができる。原告本人尋問の結果中右認定に反する部分は信用せず、他に右認定を覆えすに足りる証拠はない。
また、原告本人尋問の結果(但し、信用しない部分を除く)によれば、原告は、
(ニ) 大阪で貿易商を営んでいる原告の長男から貰つた衣類等とか、生徒や同僚から依頼されて購入した品物を学校に持参し、学校内でこれらの物を生徒や同僚に与えたり渡したりしていた。
との事実を認めることができ、これに反する証拠はない。
他方、原告が生徒の父兄に対し自己宣伝をなし、同僚に対し自分をことさらに高く評価するような言辞を弄しまた同僚からの注意に対して人権侵害などと言つて騒いだとの被告主張の事実(被告の答弁事実中、四の(二)の(2)の(ハ))、および原告が学芸会の練習に際し用具や場所を自己本位に専用したとの被告主張の事実(被告の答弁事実中、四の(二)の(2)の(ニ)の事実のうちの一部)は、いずれもこれを認めるに足る証拠がない。
そして、右(イ)については、個々の学校教員の職務が、一面生徒に対して施されるべき全学校教育課程のうちの限られた一時期における教育事務を分担するものであるとともに、他面特定の学校の一構成員としてその教育事務を分担するものであることを考えると、原告がその職務を行うにつき反省と協調の態度を欠いていたことは、それ自体既に教員として好ましくない態度というべきであり、右(ロ)および(ハ)については、学校の正常な運営に協力しようとしない無責任な態度というべきである。右(ニ)については、原告に不純な動機があつた等の事情が証拠上認められないから、これをもつて直ちに非難に値する行動ということはできない。結局、右(イ)ないし(ハ)の各事実によれば、原告は自説に頑迷に固執し、利己的傾向があり、かつ他人との協調性に乏しかつたものといわなければならない。
(2) 原告の虚言について
前記乙第二号証の二、証人馬加屋重男の証言により真正に成立したものと認められる乙第二号証の四の二一、前記乙第三号証の二、証人西村健一の証言により真正に成立したものと認められる乙第三号証の一〇および証人別府国丸、同西村健一、同馬加屋重男の各証言を綜合すると、
(イ) 昭和三六年四月三日、当時原告が勤務していた森山小学校で、原告の担任に反対した新入生の父兄により登校拒否が行われたことは後記認定のとおりであるが、当日朝、同校付近で新人生の子供を連れた馬加屋重男に出会つた同校々長別府国丸が、同人らに対し「よく来た」と云つたのに、当時、付近でこの様子を見ていた原告は一部父兄らに対し、「校長は折角登校して来た父兄に向かつて、登校拒否だから帰れと云つた」旨吹聴した。
(ロ) 原告が昭和三六年一月から二月にかけて森山小学校々区内の山村辰雄方に数回宿泊した事実のあること後記認定のとおりであるが、原告は昭和三六年三月一一日に囎唹郡教育事務所長や同郡志布志町教育長らから退職勧奨を受けた際、その宿泊回数を事実より少なく申述した。
との事実を認めることができ、右認定に反する証拠は存在しない。
次に、原告は志布志町教育長から退職勧奨を受けた際、主として経済的理由でこれを拒否したが、当時原告には相当な経済的余力があつたとの被告主張事実(被告の答弁事実中、四の(二)の(2)の(ヘ)の(C))について考えるに、前記乙第三号証の二、同乙第三号証の一〇(但し、いずれも後記信用しない部分を除く)、証人宮原健志の証言により真正に成立したものと認められる乙第三号証の三および証人別府国丸、同西村健一、同荒田静、同宮原健志の各証言並びに原告本人尋問の結果(但し、信用しない部分を除く)を綜合すると、原告は昭和三〇年ごろから再三にわたり志布志町教育長らから退職勧奨を受けてきたが、その都度主として経済的理由でこれを拒否してきたこと、当時原告の次男は大学に、三男は高校に在学しともに東京に居住していたので、原告は自己の俸給の中から同人らの生活費や授業料を仕送りしていたこと、当時原告は知人の小幡文香に頼まれて永井実昭に金二一万円を貸し与えていたことを認めることができ、これに反する証拠はない。そして、前記乙第三号証の二および同第三号証の一〇中には原告が他にも数件金員を貸した事実がある旨の記載があるが、いずれも伝聞に基くものであつて直ちに信用することができず、他にこの事実を確認しうる証拠はない。しかも、原告本人尋問の結果(但し、信用しない部分を除く)によれば、右金二一万円は昭和二九年に原告が小学校教諭を退職したことにより支給を受けることになつた恩給の約二年分を融通したものであることが窺われ、この事実と原告が当時次男や三男に仕送りをしていたとの前記認定の事実とを併せ考えると、当時原告が退職勧奨を容易に受け入れることができるほどの経済的余力を有していたとは認められず、他にもこれを認めるに足りる証拠はない。
次に、原告が「森山小学校養護婦鮫島幸子が日直をしないと云つた」旨虚構の事実を校長に告げたとの被告主張の事実(被告答弁事実中、四の(二)の(2)の(ヘ)の(D))は、本件全証拠をもつてしてもこれを認めることができない。
そして、右(イ)については、当時原告は登校拒否の渦中にあつたのであり、右(ロ)については、当時原告は再三にわたる不本意な退職勧奨を受けていて自己の地位を守る必要に迫まれていたのであつて、ともに異常な雰囲気と心理状態の下で事実と異る発言をしたものであることが推認され、右の各当時におけるかような事情を考慮すると必らずしも強くとがめることもできないと思われるし、また右(イ)および(ロ)の事実から直ちに原告に性格的な虚言癖があつたとまでは認定することができない。
(3) 原告の品位および生活態度について
証人菅原光夫の証言により真正に成立したものと認められる甲第一八号証、同第二〇号証、同第二一号証(但し、後記信用しない部分を除く)、前記乙第二号証の二、同乙第二号証の四の一、証人留岡喜佐子の証言により真正に成立したものと認められる乙第二号証の四の一六、証人山村トシエの証言により真正に成立したものと認められる乙第二号証の四の一八、前記乙第四号証の一および証人別府国丸、同西村健一、同馬加屋重男、同末吉保男、同瀬戸口吉三郎、同松方敏博、同留岡喜佐子、同池尻実男、同山村トシエ、同大島実男、同山裾弘、同今田武雄、同菅原光夫の各証言並びに原告本人尋問の結果(但し、信用しない部分を除く)を綜合すると、原告は、
(イ) 自宅への終バスに乗り遅れたりした際等に、生徒の父兄宅に宿泊することがかなり頻繁にあつたが、これが度重なるにつれ内心迷惑に感じる父兄もあつた。
(ロ) 家庭訪問や運動会の際に、漬物、野菜その他の食物等を生徒の父兄から貰つたり、また学校で来客が残した茶菓子や宴会の残余物を自宅へ持ち帰つたりすることがしばしばあつて、一部父兄や同僚に不快の念を抱かせていた。
との事実を認めることができる。原告本人尋問の結果中右認定に反する部分は信用しないし、他に右認定を覆えすに足りる証拠はない。
また、証人別府国丸の証言により真正に成立したものと認められる乙第二号証の三の一、同第二号証の三の二、証人山裾弘の証言により真正に成立したものと認められる乙第二号証の四の二三、前記第三号証の二、証人今田武雄、同坂川政雄、同大島実男、同馬加屋重男、同山村トシエの各証言により真正に成立したものと認められる乙第三号証の四および証人別府国丸、同西村健一、同馬加屋重男、同坂川政雄、同山村トシエ、同大島実男、同山裾弘、同今田武雄、同菅原光夫、同川原登、同宮原健志の各証言並びに原告本人尋問の結果(但し、信用しない部分を除く)を綜合すると、
(ハ) 昭和二八年四月に原告が森山小学校に赴任して以来時日を経るに従つて、同校父兄の間に原告の教科指導や生活態度等につき不満や不快の念を抱く者が現われるに至つたこと、昭和三五年度の同校三年生の担任が原告に決まつたことを知つた三年生父兄のうち十余名が同年四月一日その担任拒否を当時の同校々長別府国丸に申し出たが、結局校長の説得により一応の落着をみたこと、翌昭和三六年四月一日同校人学式終了の際一年生の担任が原告である旨発表されたが、これを不満とする今田武雄ら一部父兄は右入学式終了直後式場に居残つていた一年生父兄全員に対し、一年生の担任を他の教員に替えてもらうよう校長に申し入れることを提案し、もし右申し入れが容れられないときは登校拒否の手段に訴えることを発議したこと、その際右父兄らは、原告の教科指導が特定の科目に片寄つており殊に音楽や体育の授業が正常になされず家庭との通信も不充分であるし、また生徒の家を原告が泊り歩いて迷惑をかけている等の事実がある旨主張し、更に右今田武雄が起草しその後尾に右の一年生父兄全員の氏名を書き上げた「担任辞退意見書」なる書面(乙第三号証の四)に各自押印するよう呼びかけ、その結果右の一年生父兄全員が右書面の自己名下に指印もしくは押印したこと、同式場に居合わせた父兄中には、事態の意味を充分に理解せず、もしくはその場の雰囲気から発言者に追従して右指印ないし押印をした者も一部あつたが、その間右発議や呼びかけに対し異議を述べた者はひとりもなかつたこと、このような父兄の動きを察知した学校側では直ちに志布志町教育長らに連絡をとる一方、その指示に従つて同月二日、一年生父兄に対し子供を登校させるよう記載した文書(乙第二号証の三の二)を配布したこと、しかし学校側が一年生の担任教員を替えなかつたので、同月三日には一年生児童がひとりも登校しなかつたこと、右登校拒否は、前年度に担任拒否を行つた際原告が今後校長の指示通り行動する旨約しておきながら、その後の原告の態度に何ら改まつたところがみられなかつたことに対する不満もその一因をなしていること
をそれぞれ認めることができる。前記甲第二一号証および原告本人尋問の結果中右認定に反する部分は信用せず、他に右認定を覆えすに足りる証拠はない。また、原告本人は、「担任拒否や登校拒否の問題は校長と県教育委員会とがぐるになつてやつていると聞いた。」旨供述するが、右供述は伝聞ないし原告の臆測に基づくものでその根拠があいまいであつて直ちに信用できないし、他にもこのような事実を認めるに足りる証拠はない。
そして、右(イ)および(ロ)については、通常の社交の範囲を超えてやや度を過した憾みがあり、教員として一般に要求される節度を欠いた行動であるといわなければならない。また右(ハ)の事実によれば、前記認定のような原告の教科指導上の諸欠陥や生活態度における節度の欠缺等が原因となつて、原告は次第に父兄間に教員としての信頼ないし支持を失うようになり、昭和三五年四月には一部父兄による担任拒否という形でこの不信感が表面化されたが、その後も原告が一向に態度を改めなかつたことが右不信感を一層強める結果となり、遂には翌三六年四月三日の登校拒否という事態にまで発展したものであつて、その結果、学校教育を相当期間にわたり混乱状態におとし入れたものといわなければならない。もつとも、右担任拒否や登校拒否を発議し、かつその遂行に主導的役割を演じたのは、父兄中の一部の者であつたこと右認定のとおりであるが、同人らがその事由として他の父兄に対して指摘し主張した諸事実は、いずれも本件において認定するように、無根の事実ないしことさらに歪曲誇張された事実とはいいえないものであり、また同人らが他意あつてこのような挙に出たことを認めさせるような証拠もないのであるから、右の担任拒否や登校拒否の事態が生じたことにつき原告に責むべき点がなかつたものということはできない。
(4) 原告が非常識かつ不作法であつたとの主張について
前記乙第二号証の二、同乙第二号証の四の一、証人留岡喜佐子の証言により真正に成立したものと認められる乙第二号証の四の一四および証人別府国丸、同末吉保男、同瀬戸口吉三郎、同留岡喜佐子の各証言並びに原告本人尋問の結果(但し、信用しない部分を除く)を綜合すると、
(イ) 原告が森山小学校に勤務していた頃、同校では冬期になると水が不足するので、生徒や小使らが近所の民家から飲料水を貰つて学校まで運んで来ており、洗濯用には付近の小川の水を使用することになつていたのに、原告は昭和三五年三月八日右飲料水を洗濯に使用し、かつ主として同校教職員らが手や顔を洗うのに使用していた洗面器に自己の下着を浸していた。
(ロ) 生徒に対して、「おい」「わい」等の品の悪い言葉を使うことがあつた。
との事実を認めることができ、右認定を覆えすに足りる証拠はない。
そして、右各事実はいずれも些細なこととはいえ、決して教育上好ましいことでないことは明らかであり、結局原告は、自己の行動が生徒に与える影響への配慮とか、常に教職員たるにふさわしい節度ある行動をとろうとする態度とか、に欠けるところがあつたというべきである。
(5) 原告の勤務態度について
前記乙第二号証の二、同乙第二号証の四の一、同乙第四号証の一および証人鶴留徳一の証言並びに原告本人尋問の結果(但し、信用しない部分を除く)を綜合すると、
原告は、
(イ) 勤務中の同僚に不要不急の話しかけをすることがあつたため、その仕事の妨げとなつた。
(ロ) 授業時間中に担任の生徒に自分の肩をたたかせることがよくあつた。
(ハ) 森山小学校勤務当時、勤務時間中に同校炊事場で学校用の薪を使用して自己の昼食の炊事をし、そのため第五時限目の授業に遅れることがよくあつた。
(ニ) 所用のための校長の呼び出しに応じないことがときどきあつた。
との事実を認めることができる。原告本人尋問の結果中右認定に反する部分は信用しないし、他に右認定に反する証拠はない。
しかし、原告が昭和三五年度夏期休暇中、校長から校外生活指導を命じられながら一回も行わなかつたとの被告主張の事実(被告の答弁事実中、四の(二)の(5)の(ヘ))については、前記乙第二号証の二および証人川原登の証言中にこれと同趣旨もしくはこれを裏付けるかのような記載ないし供述があるが、右乙第二号証の二の記載は同号証作成者の伝聞によるものであることが窺われその真偽のほどが明らかでなく、また右証人川原登の供述はその前後の供述と対照するに必ずしもその趣旨が明瞭でなくともに直ちに採用することが困難であるし、他にもこの事実を認めるに足りる証拠はない。
そして、右(イ)ないし(ニ)の各事実および前記認定の三の(一)の(1)の(イ)ないし(ニ)の各事実を併わせ考えると、原告はその勤務態度において、とかく無責任かつ放恣に流れていて節度がなく、その職責を忠実に果していなかつたものといわなければならない。
(三) 前記三の(一)および(二)に掲げた各証拠を綜合すると、原告にみられる以上のような勤務上、生活上にわたる諸欠陥(前記三の(一)の(1)ないし(4)および三の(二)の(1)ないし(5)の各事由)は相当期間継続して存在し、かつその間校長や同僚の忠告を真面目に聞き入れないばかりか、ときにはこれに反抗的態度を示すことさえあつたことが認められるし、また前記担任拒否および登校拒否等の事件発生後においても原告において自己の欠点を反省し是正しようと努めた形跡は証拠上認めえないのであつて、かような諸事実に右の各証拠から窺われる原告の性格並びに原告の年令等を併わせ考えると、原告に存する右諸欠陥の矯正は容易に期待できないものと思料される。
そして、右事実に前記三の(一)の(1)ないし(4)および三の(二)の(1)ないし(5)の各事由を綜合して考えると、原告は勤務実績が不良でかつ教諭に必要な適格性を欠くものと認めるのが相当であるから、原告に対する本件免職処分は、処分事由の点において何ら違法はないというべきである。
四、次に、原告は、本件免職処分は原告が被告からの退職勧奨に応じなかつたことに対する報復としてなされたものであつて、権利の濫用であると主張するので、この点について判断する。
原告が昭和二九年三月末に被告から退職勧奨を受けて小学校教諭を退職し、同年四月二日から同講師に採用されたこと、昭和三〇年以降も毎年原告は被告から退職勧奨を受けたが、その都度これを拒絶していたこと、原告が森山小学校に勤務中同校父兄の手によつて、昭和三五年四月に担任拒否、翌三六年四月三日に登校拒否の事態が生じたこと、および被告が同年四月一日付で原告に対し森山小学校講師から志布志小学校講師に転勤を発令したことは、いずれも当事者間に争いがない。
そして、右争いのない事実に、証人別府国丸の証言により真正に成立したものと認められる乙第二号証の一、二、証人西村健一の証言により真正に成立したものと認められる乙第三号証の一、二、前記乙第三号証の三、同乙第四号証の一および証人別府国丸、同西村健一、同鶴留徳一、同荒田静、同宮原健志の各証言並びに原告本人尋問の結果(但し、信用しない部分を除く)を綜合すると、被告は従来から鹿児島県下の小学校教員についてその人事上の新陳代謝を図る目的で、毎年年令や在職年数等を内容とする一定の基準を定め、その該当者のうち特に同県下の教育振興の見地からその勤続を必要とする者等の例外者を除く爾余の者に対し、任意退職を勧奨してきたところ、昭和二九年度以降原告が右基準に該当するようになつたので更に原告の勤務成績、教員としての適格性、身体の状況等をも併せ勘案したうえ、原告を右勧奨の対象者とするのが相当であると判断し、以後毎年原告に対して同県囎唹郡教育事務所長、同郡志布志町教育長らを通じ退職の勧奨を行つてきたが、原告はその都度経済的理由を主張してこれを拒絶してきたこと、他方、当時原告が勤務していた森山小学校の父兄のうちに原告の勤務態度や素行等について不満の念を抱く者が現われ、前記認定のような経緯で(前記三の(二)の(3)の(ハ))昭和三五年四月に担任拒否、翌三六年四月三日に登校拒否の事態を惹起したこと、そこで被告は、右事態の収拾とその原因の調査に乗り出す一方、原告の気持を鎮めかつその心気一転を図る趣旨で原告に転勤を勧めた結果原告もこれに同意したので、同年四月一日付で志布志小学校に転勤を発令し、その結果右事態も一応の落着をみたこと、その後被告は、同年一二月中ごろからあらためて原告の勤務実績等に関する調査資料の蒐集に着手し、原告の職務上の監督者であつた志布志町教育長、森山小学校長および志布志小学校長らを通じて集められた資料を綜合検討した結果原告に法定の分限免職事由があるものと判断して本件免職処分を行うに至つたことがそれぞれ認められる。原告本人尋問の結果中右認定に反する部分は信用しないし、他に右認定を覆えすに足りる証拠はない。
原告は、右の担任拒否および登校拒否は、原告に対する右退職勧奨が効を奏しなかつたため被告において当時の森山小学校長別府国丸と通謀し、地元の有力者やPTA幹部等に働きかけて行わしめたものであると主張し、原告本人尋問の結果中には右主張に沿う供述部分があるが、右供述内容は風説や自己の臆測に基く等その根拠があいまいであつて、証人別府国丸、同西村健一、同今田武雄、同宮原健志の各証言と対照してたやすく信用することができない。また原告は、被告は執拗かつ強硬に右退職勧奨を行つたと主張し、当公判廷での原告本人尋問に際しても同旨の供述をするとともに、「殊に昭和三六年三月一一日に行われた退職勧奨の際には、その衡に当つた囎唹郡教育事務所長宮原健志と志布志町教育長西村健一とが原告に乱暴を働き、更に右宮原は原告に対して退職勧奨に応じなければ直ちに分限免職処分にすると云つた。」旨供述するが、右供述はいずれも前記乙第三号証の三および証人宮原健志、同西村健一の各証言に照らしてたやすく信用することができない。尤も、右の各証拠によれば、当日の退職勧奨に際しての原告の態度がかなり不誠実なものであつたことが認められ、そのためにその場の雰囲気が多少尖鋭化したであろうことは推測できないでもないが、このことから直ちに原告主張の右事実を確認することはできない。そして、他に本件免職処分は原告が被告からの退職勧奨に応じなかつたことに対する報復であるとの原告主張の事実を認めるに足りる証拠は存在しない。
五、以上のとおり、被告の原告に対する本件分限免職処分は正当であつて、原告の本訴請求はいずれも理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判官 宮本勝美 佐藤繁 谷村允裕)